essay

人はグレーゾーンで生きていると認識したら【矛盾】がポジティブに確変しました。

矛盾な状態にワクワクしてしまいそうです

盾と矛を例に取り考えてみます。

お互い相まみえたときどうなるのか?

  1. 盾が矛を防ぐ。
  2. 矛が盾を貫く。
  3. 盾も矛も両方破損する。
  4. 盾も矛もビクともしない。

 

先ほどまでの私は、単純に矛盾とはあり得ない話で、ネガティブな表現だと認識していました。

しかし、考えてみたら少なくとも4通りの結果が考えられます。

もちろん、「どんな盾も突き通す矛」、「どんな矛も防ぐ盾」という看板には偽りがあります。

 

しかし、人は絶対が存在しない世界に生きています。

それなのにグレーゾーンを認められない生き方をしているから息苦しいのかもしれません。

 

思い切ってグレーゾーンをも認めてしまえば 3番、4番の結果が現れるのかも・・・

ワクワクしませんか?

 

矛盾を認識した段階で、思考・行動を止めてしまえば、ワクワクする未来を観ること無く終わってしまいます。

 

今思えば、私はつまらない時間を過ごしてきたものです。

 

人間として生まれたのですから、葛藤・自己矛盾・他者との違いを認識し、受け入れ、楽しめば良かったのだと突然思い始めました。

 

矛盾とは

矛盾をWikipediaで調べてみました。

矛盾(むじゅん、英: contradiction)とは、あることを一方では肯定し、同時に他方では否定するなど、論理の辻褄(つじつま)が合わないこと。物事の筋道や道理が合わないこと。

『韓非子』の一篇「難」に基づく故事成語。「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた楚の男が、客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話から。もし矛が盾を突き通すならば、「どんな矛も防ぐ盾」は誤り。もし突き通せなければ「どんな盾も突き通す矛」は誤り。したがって、どちらを肯定しても男の説明は辻褄が合わない。

「矛盾」は、韓非が『韓非子』の中で儒家(孔子と孟子がその代表、ここでは孔子)批判のためのたとえ話の中で、「矛盾」という言葉を使ったもの。儒家は伝説の時代の聖王の「堯」と「舜」の政治を最高で理想だとし、舜が悪きを改め、良い立派な行いをして人々を助けたから堯は舜に禅譲したとした。しかし、韓非によれば、堯が名君で民を良く治めていたとすれば、舜が悪きを改め、良い立派な行いをして人々を助けるということはそもそも起こりえない。一方が立派な人物だとすれば他方はそうではなくなってしまう。したがって、両方の者が同じく最高の人物で、理想的な政治を行ったというのは話が合わず、あり得ないという意味を込めて批判的に矛盾の喩え話をした[1]。いわば、この話には、韓非が儒家(徳治主義)の思想を批判し、自説の法家(法治主義)の思想の正当性を主張しようという意図があったのである。

 

語源そのものを知っていましたが、背景に孔子批判があることまでは知りませんでした。

 

過去(ついさっきまで)の【矛盾】に対する私の認識

セミナーなどの話を聴いていても、あるいは本を読んでいても違和感を感じる事が多々あります。

どこかで論理が破綻していると思われるのです。

私の場合、瞬間的に矛盾点にフォーカスしてしまいます。

 

あるいは理不尽とも思える発想・思想も受け入れられませんでした。

 

 

その結果、良いとこ取りを目指すスタンスをとってしまいます。

 

素直に愚直に受け入れられないのです。

 

守破離が一瞬しか出来ない!

 

そんな自分が悲しくもありました。

 

人は相手を見るとき、それは鏡を見ているのと同じで自分自身を相手の中に見いだしている。

物事には良いも悪いも無いんだ。

 

よく言われることだと思うのですが、私には納得がいきませんでした。

それも最初の一瞬から・・・・・

 

私は、理不尽なことをされると一切の付き合いを止めてしまうこともあります。

 

今この瞬間に思うのは、自分だけの正しさに埋もれていたのでしょうね。

 

矛盾はネガティブでは無い

 

当然、正しさは存在します。

 

「例えば、人を殺してはいけない。」

 

しかし、よく考えてみれば、戦争は殺しあいです。

私も守る者のためなら、正当防衛だろうが緊急避難だろうが戦争だろうが関係なく戦います。

結果として相手を殺さなければ、愛する者・守るべき者を守れないのならば、相手を殺すことも厭わないでしょう。

幸いそのような場面には、まだ遭遇していませんが・・・・

 

以前から絶対的な正しさなんて、人間界には存在し得ないと思います。

宗教を見ても、同じキリスト教でもたくさんの宗派が存在します。

お互い相手を受け入れきっていません。

 

おかしくありませんか?

と感じていました。

 

しかしそれは人間だからかもしれません。

 

人間だから、あるいは生命体だから人の数だけ・生命体の数だけ細分化されている。

しかも、宇宙の法則の下では繋がっている。

 

まさに矛盾の中で生かされている存在なのだと思いました。

 

矛盾をポジティブイメージへ確変させる

私はこれから正しさを受け入れ続けます。(まだ自分の正しさは捨てられません)

私はこれから誤りを認識し、その背景に理解を示します。(だからといって例えばオウム真理教における処刑を否定しません。むしろ積極的に肯定しています)

私はこれから矛盾・理不尽だと思っていた事柄へも挑戦しようと思います。

矛で盾を突かなければ、結果がどうなるのか誰にも判らないのに、矛盾という言葉だけで行動を制限していた自分を叱っておきました。

 

考えてみれば、そこに自分のリミッターが設定されていたのでしょうから・・・

 

殻を破るということはリミッターをずらす・ブロックを外す事以外に出来ません。

そしてそのことにワクワクしている自分に、とても驚いています。

 

今日、今現在の私の思考を自分だけでも褒めておきます。

取り敢えず大きく変化するのですから

-essay

© 2024 Light Reader Magazine