好奇心ってどこから生まれるのか、どこへ消えてしまうのか?
鶏が先か、卵が先かの議論を小学校の授業でした記憶があります。
この話は、当時は当然結論が出るわけでなく、しばらくの間、友達同士や、家族の会話のネタになっていました。
- 誰も傷つけない命題・・・
- 親子や友達同士のコミュニケーションの材料・・・
- 好奇心の扉を開く・・・
授業で真面目に取り上げられた事に感謝すべきですよね。
この問題は、今でも、真面目に分析されています。
- 哲学的な側面
- 生化学的な側面
- 数学的な側面
- 神学的な側面
- 東洋哲学的な側面
※詳しくはウキペディア
たぶん、子どもの頃に、心にフックがかかってしまった人が、たくさんいたのでしょうね。
私は、宇宙の果ての問題を結構真面目に考えたりしていました。
三面鏡で合わせ鏡をすると無限に自分が映し出されますが、何人まで自分を数えられるか、一人で遊んでいました。(問題児です)
知らない道に入り込むのが大好きでした。
私が、大陸移動説を知ったのは、高校の時だと思います。
1912年ぐらいに提唱されて、1960年ぐらいまでは、異端扱いの理論です。
子どもの頃、地図のジグソーパズルがありました。
パズルをやっているうちに、アフリカ大陸と南米大陸がピッタリくっつくと感じていました。
でも、まさかね!
まだ、プレートテクトニクス理論など認知されていない時代です。
まさか、陸地が動くなんて思いません。
天動説から、地動説に正解が移った時代の人々も、まさに驚天動地だったでしょうね。
これも、星の動きに好奇心を持った人々(コペルニクス他)の成果です。
好奇心は、心が動かないと生まれません。
好奇心の対象に出会えないからです。
物理的な動きだけでなく、情報のシャワーの中でも本来、好奇心は生まれてくるはずです。
「こんなこと質問したら笑われるかも」
「知らなかったことが知られたら恥ずかしい」
「こんな質問無意味なのでは」
羞恥心が好奇心を上回った瞬間、大人になると云うことでしょうか?
無意味の中の意味
これは、トンチ問題です。
私は、子どもの頃から「無意味の中に意味がある」という概念を持っていました。
「無意味の中に意味がある」
無意味な事ばっかり考えたり、やりたがっていた、私の意固地な考えの集大成です。
- ネット上の知識だけで、分かった気になる。
- ネット検索能力の高さが自慢。
- 知識の量が、優秀さの証。
やってみないと分からない事が多すぎる現実世界。
知識は、先人の偉業であって、データーベースへのアクセスさえできれば誰でも知り得ます。
- 空気がかわる!
- 違和感がする!
- 相手の本心が、云ってることと違う。
相手に興味がないと分からない事です。
好奇心は子どもだけの資質ではありません。
たまごが先か?ニワトリが先か?
今でも結構面白い話題だと思います。