確率論が好きです。
そして、そこから起こる誤謬(ごびゅう)に惑わされる自分が嫌です。
ややこしい話になりますので先に私的主観を述べます。
どのような事象が単純な確率で推し量れるのかを見極めることが、人生では重要だとおもいます。
白黒ハッキリさせたくても簡単にはできません。
二元論的思考は好きですが、それが二元論で語れることなのか?
切り口は正しいか見極めるべきです。
サイコロを振るとすべての目の出る確率は理論上六分の一ずつになります。
そんなこと、当然ですよね。
世の中には意図的、あるいは造りの悪さから、バランスの崩れたサイコロが存在するかも知れません。
しかし我々は、当然のこととして 『大数の法則』が働くことを大前提にベットします。
大数の法則:数多くの試行を重ねることにより事象の出現回数が理論上の値に近づく定理
ここで、いくつかの誤解が生じてしまいます。
コイントスをして、表裏で勝負したとします。
もし、5回ぐらい続けて表が出たら、どちらにかけたいですか?
それが30回、表が続いていたとしたら?
結論からいうと、次に表裏の出る確率は二分の一ずつです。
なんか理不尽な気にさせますよね。
大数の法則を論じていながら、この結論!
しかし、物事は条件が同じならばすべての瞬間はフラットで同じ確立を示します。
では大数の法則は、どう考えるべきなのでしょう。
そもそも全ての事象に大数の法則は当てはまるのでしょうか?
世論調査のサンプル数が統計学上、どのくらい必要かという研究がアメリカでは相当前から、進んでいます。
まだまだ、精緻だとはいいがたいですが、それでも研究の進んだ分野では驚くほど少ないサンプル数で、ほぼ正確な予測を導き出しています。
マーケット大国のアメリカらしい、研究テーマで、だからこそ、ノーベル経済学賞を独占しているのだと思います。
これが ロシアンルーレットだと、話が違います。
1発引き金を引くごとに、不幸な当たりを引く確立は高まります。
思うのですが、5発目の引き金を引いた場合、それが空砲だったら6発目は引くのでしょうか?
命乞いをされた場合はどうしたのでしょうか?
まさかの暴発とか不発はあり得るのでしょうか?
過去の事例を知りたいですね。
6発目は確率論の外側に存在する事象になってしまいますので、このまさに命がけの決闘は、最初から不平等な仕組みですよね。
ブラックスワンの存在をご存知ですか?
黒い白鳥、映画がヒットしましたが、そもそもの話は、黒い白鳥が存在するかという命題にあります。
たとえば『富士山が爆発するかしないか』というブックメーク賭けがあったとします。期限の定めが設定されていれば成り立つ賭けですが、もし、期限の定めがなければ 答えはイエスですよね。したがって賭けは成立しません。
『宇宙人がいるかどうか』はどうでしょう。
観念的にはこの広大な宇宙に生命体が存在しないわけがありません(と信じてます)
我々の存在が奇跡の賜物だとしても、その奇跡的な確率をも凌駕するまさに天文学的な星々が存在するはずです。
では、賭けが成立するでしょうか?
そもそも、存在しないことを証明することは、ほぼ不可能です!
先ほどのブラックスワンもオーストラリア大陸が発見されるまでは、存在が否定されていました。
ブラックスワンは発見されましたが、発見されるまでは、存在しないことの証明が出来ませんでした(誰もみたことが無いので、存在しないというコンセンサスがあった訳です)
ツチノコがいないと証明できませんよね!
雪男はどうでしょう!
二元論の外側、確率論の外側を意識していると、人生には想定外の事柄が当然に起こりえるし、上手くいかなくて当たり前、順調すぎる方が怖いと感じます。
そしてだからこそ、人生は愉しいといえる自分になりたいですね!