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リチャード・バック「かもめのジョナサン」
今から45年近く前にリーダーズダイジェストという雑誌で最初に読んだことがありました。
五木寛之さんの翻訳というか創作ではありませんでした。
その時の感想を素直に言葉にします。
ただ、かもめが飛んでいるだけ
今回、五木寛之さんの翻訳で読んでみました。
本来存在していながら、当時の時代背景からなのか削除されていたパート4を含んだ新版です。
感想が少し変わったと思います。
ただ、気持ちよく
自分の意志で飛んでいるだけ
リーダーズダイジェストに掲載されてから2年後ぐらいに日本でも出版されました。
映画化もされました。
長嶋茂雄さんが絶賛されていたのを覚えています。
感性の人・・・長嶋茂雄さんは、どのように感じたのか気になります。
この本は、短編がゆえに色々な捉え方ができると思います。
一部の方々は、自己啓発の書として捉えているみたいです。
素直に受け取れない私は、自己啓発の書としてはあまりにもストレート過ぎると感じていました。
「なにもかもめを持ち出す必要性があるのか」と、ひねくれていました。
最近、「かもめのジョナサン」「イリュージョン」と続けてリチャード・バックの本を読みました。
イリュージョンの巻末には興味深いことが、書かれていました。
翻訳者の村上龍さんが来日したリチャード・バックと過ごした時のエピソードです。
三菱のテストパイロットでゼロ戦乗りの撃墜王 本田さん
「飛行機乗りは、様々な知識と訓練を経て、一人前になっていく。
ジョナサンは、そのことをカモメになぞらえて書いてあるなあ
と、思いました」
リチャード・バック
「まったく、その通りなんです)
引用元:イリュージョン(集英社文庫)
人は、自分の見たいものを見たいように見る
本質はもっとシンプル
そんなことを考えさせられました。
勿論、この本はジョナサンが成長し、そして指導者へと育っていく様子が書かれていますので、自己啓発本だともいえます。
本屋さんには、自己啓発本があふれています。
セミナーも沢山あります。
私も、それなりに本を読みました。
有名な9ステップの合宿セミナーにも参加したことがあります。
そして違和感を感じてしまいました。
お金に対する価値観
成功の定義
そして成功者以外はダメ人間なのかという疑問
リーダーといわれる人の立ち位置
心の底から引っかかっていました。
ジョナサンにはお金が必要ありません。
カモメですから!
ジョナサンにはモニュメントも要りません。
カモメですから!
社会的動物である私たち人間は貨幣経済の中に存在します。
それが人類を発展させた原動力の一つです。
後戻りはできません。
私は、原理主義者ではありませんからその点を否定しません。
ただ、
「価値観は修正できるのでは」
「成功の定義を変えられるのでは」
「ダメな人、不要な人などいない」
「リーダーとは、他者のために存在する」
とは思っています。
私は、子供の頃に読んだ「青い鳥」が不思議と好きでした。
確か、小学校の卒業寄せ書きにも青い鳥のことを書いた記憶があります。
いろいろあった子供時代・・・・
その頃から私は幸せ探し・自分探しをしていたのですかね。
そして本能的に青い鳥の本質を受け入れていたのかもしれません。
追加されたパート4
実は、この点に触れたくて レビューを書いています。
おそらく、以前に「かもめのジョナサン」を読んだことがある方で、パート4が追加された新版が出版されたことを知っている人は少ないと思います。
リチャード・バック自身で削除し、忘れていたパート4を奥様が発見しました。
奥様はそのパート4に感嘆されたようです。
私も実は、このパート4がなければレビューまで書くつもりはおきかったと思います。
次から次へと≪直接にジョナサンから学んだ生徒たち≫はこの世を去っていった。
冷たい骸が後に残った。
その骸に集まったカモメの群れは、涙に暮れた盛大な儀式をとり行い、小石で作った巨大な石塚の下に直弟子たちを埋葬した。
ひどくしかつめらしい顔をしたカモメが長い哀悼の」説教をしたあと、小石はそれぞれ定められた場所におごそかに
積まれた。石塚は偉大な聖堂となった。
引用元:かもめのジョナサン(集英社文庫)
私が、宗教団体を本能的に受け入れられない最大の理由です。
私自身は、無償の愛を語り、そしてそれを実践して、教え導いたキリストの存在を完全に受け入れています。
いくつかの奇跡が仮に今で言うならば、手品の一種だとしてもです。
しかし、私はカトリックもプロテスタントもあるいは、なんだか解らない宗教団体も受け入れられません。
宗教そのものではなく、今の姿、形、在りようが、受け入れられないのです。
そもそも、神は貴方とともにあると言っているはずです。
布教活動をすることは、神への冒涜ではないのですか?
歴史上、最も悲惨な戦争の多くは宗教戦争です。
おかしくないですか?
私は、輪廻転生論を受け入れています。
なので、キリストの復活は当然です。
ただし、キリストは人として生まれ、人として死んでいき、また人として(あるいは違う存在として)復活(転生)しているはずです。
これは、私の宗教観です。
相容れなくも、あなたの世界・宇宙にまで私の思想を送り込みませんので、私の世界・宇宙にはあなた方の宗教観をねじ込まないでください。
布教活動をされている方に言います。
貴方の神様と私の神様は違うのですか?
同じならば、そもそも布教する必要がありません。
違うならば、教義を疑ってみるべきです。
アンソニー
「そうやっておとぎ話が進むわけですね。まあ、それほどの速さで飛べるということを目の前で見せていただけるのなら、ぼくもあなたの言うことを信じるようになるでしょうけど」
ものすごく大切なことが書かれていると思います。
アンソニーは、少なくとも自分の意志を持っています。
ここだけを切り出してもなんのことかわからないと思います。
ぜひとも新版の「かもめのジョナサン」を一読してください。
仏教の世界でも「面授の弟子」ということgs重要視されることが多い。「面授」とは、直接にその人と向き合って教えをきいた特別な存在である。
直門とか直弟子とかいうことばである。
引用元:かもめのジョナサン(集英社文庫)
唯識論で詳しく述べたいと思っています。
ブッダは食中毒で亡くなった。クシナガラの林の中で、いわば行き倒れのような逝き方をした。息絶える前に残した言葉のなかに、「弟子たちは葬儀にかかわるな」というのがあった。
自分の日頃の教えを大切にせよ、死の儀式化は俗世間にまかせよ、ということだろう。
しかし、ブッダの偶像化は、彼の死と同時に発生する。遺骨の分割についての争い、ブッダの教えよりもブッダその人を崇拝することが重要視されるようになっていく。
引用元:かもめのジョナサン(集英社文庫)
リチャード・バックは「イリュージョン」でさらに突っ込んで現代の宗教の形を批判していると思います。
キリストに対して、なぜ救世主を辞めなかったのだろうとも語らせています。
そこに本質があると感じます。
今、私は色々な神社やパワースポットへ出かけています。
正直、神秘的な体験もいくつかしました。
しかし、私には、モニュメントに美術的な価値以上の部分を見出せない場所が多いです。
多くの神社はエンターテインメントの場だとさえ思っています。
勿論、それだけではないのものを感じる場所がいくつかあるのは事実ですが。
ジョナサンの飛び方に憧れたカモメたちの間に、ジョナサン教が生まれ、飛ぶことよりもジョナサンの秘儀を語ることが彼らの関心事となっていくのは象徴的だ。
そんな中で、アンソニーという一羽のカモメが、深い疎外感におそわれ、その果てにみずから死を思うところまで追いつめられる。一種の鬱におそわれたと考えていい。そして、そこに現れたのが、永遠の時空を超えたジョナサンだったのか。それともジョナサンの幻影だったのか。
引用元:かもめのジョナサン(集英社文庫)
正しいものを自分の心眼で見ようとするものに、真実は現れるのだと感じました。